自治体職員のためのことば帖

読んだ本、観た映画、見かけたブログなどから集めた言葉を展示します。

006「図書館とは人なんです」

「図書館とは、単なる本の置場じゃない。図書館とは人なんです」

映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』より。

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先日、映画に言及したネット上の対談を取り上げたが、やっぱり映画自体を観ないといかん、ということで観てきました。上のセリフは、あるセミナーみたいなところで講師が言っていた言葉。記憶で書いているので、厳密なセリフ回しはちょっと違うかもしれないけど。

日本でも「無料貸本屋論争」なんてのがあるけれど、そんな中で、図書館の役割を端的に言い切ったセリフだと思う。実は続きがあって、知を求めてきた利用者に知を提供するのが図書館であること、本も講演会も就職セミナーもコンサート(!)も、そのために行われるものであることが語られている。

思うに、上のセリフの「人」には2つの意味がある。ひとつはすでに書いた「知を求めに来る人」、つまり利用者だ。そもそもかつての図書館は、それこそ巨大な書庫にすぎなかった。それを一般の人々に解放したさきがけとなったのが、まさにニューヨーク公共図書館だったのだ。何かを知りたいと思って来る人がいてこそ、現代の図書館は成立しているのである。

そしてもう一つは、図書館で働く人だ。その中核になっているのが「司書」である。司書は単なる本のガイドではない。知そのものの水先案内人であり、利用者と知をつなげるコーディネーターなのだ。さらに、ニューヨーク公共図書館ではすでに書いたように、さまざまな講演会やセミナー、コンサートなどがしょっちゅう行われている。地域ごとに分館があり、地域の特徴に合わせたイベントも多い。そうした「リアルな知の提供」と書籍がお互いを補うようにして、図書館は成り立っているのである。

そして、ニューヨーク公共図書館の大きな特徴が、いわゆる官民協同の施設であることだ。市も運営資金を出すが、民間からの寄付も大きなウェイトを占めている。映画の中では運営会議らしきシーンが何度も登場するが、市の意向に沿った企画を優先すべきか、持続可能性も考慮して企画を考えるべきかが熱く議論されていた。これは裏を返せば、市の補助も簡単に削られたり切られたりすること、その中で図書館を運営していかなければならないことを意味している。

このあたりはいかにもアメリカらしい。直営か委託かで悩んでいる日本の図書館とはまったく構図が違うのである。だが一方で、こうした運営形態だからこそ、市の意向に過度に忖度せず図書館本来のミッションを追求できるともいえるように思う。そもそも図書館は、右から左までありとあらゆる思想やイデオロギーを扱うところであり、そうした知の自由を確保するためには、所属する自治体からもある程度の自由を確保されていなければならないという意味で、公共施設の中でも異質な存在なのかもしれない。自治体の首長が自民党所属でオリンピック推進派で8月15日には靖国神社に参拝する人であっても、その自治体の図書館にはマルクスレーニンもオリンピック批判の本も靖国参拝批判の雑誌も並んでいなければならないのだ。

 

 

 

 

 

005「勝てる見込みがない限り」

「勝てる見込みがない限り、どんな戦闘も小競り合いもしないのが基本原則である」

チェ・ゲバラ『ゲリラ戦争』p.35より。

 

新訳 ゲリラ戦争―キューバ革命軍の戦略・戦術 (中公文庫)

新訳 ゲリラ戦争―キューバ革命軍の戦略・戦術 (中公文庫)

 

 

 

希代の革命家チェ・ゲバラは、徹底したリアリストでもあった。というより、理想と現実のバランス感覚にとにかくすぐれていたように思う。理想に燃えてばかりでは、革命を成就することはできない。現実ばかり見ていたら、そもそも革命など起こさない。

冒頭の一言は「現実」寄りの方であるが、だからといって、ただ敵から逃げ回っていたわけではない。むしろ周到に準備をし、あらゆる状況を考慮に入れ、そして考えに考え抜いた上で戦いに臨んだ。

とはいえ、ゲリラ戦そのものの勝利にこだわっていた、というわけでもない。むしろ「勝利はつねに正規軍が達成するものである」とゲバラは書いている。さらには、こんなふうにも。「ゲリラ戦の特徴は、個々のゲリラ戦士に、理想を守るだけでなくそれを実現するために死ぬ覚悟ができていることである」

やけばちな特攻精神ではない。むしろ戦局全体を視野に入れた冷徹な判断である。さらにゲバラが凄いのは、判断にあたって「自分の利害」がいっさい考慮されていないことだ。無私であること。それが理想と現実を両立させるための要諦なのかもしれない。

004「民衆は忘れるんですよ、どんどん。」

「民衆は忘れるんですよ、どんどん。いちいち立ち止まっていたら、日常生活が回っていかないから。でも、だからこそ専門家にはそれぞれの領域で、僕らが忘れていくことを覚えておいてほしい。それはいつか、たとえば、僕らが危機に陥った時に役に立つかもしれない。で、きっと図書館や公文書館の役目の1つもそれなんです。」


スゴ本&読書猿対談「映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を語り尽くす」より

hatenanews.com

ネットの世界に突然出現した、とんでもない密度と深度の「知」。もっともこのお二人の対談は以前もネット上に登場し、浅学のわが身としては、圧倒的な知の奔流に呑まれるばかりであった。今回もまた、映画『ニューヨーク公共図書館』をベースにしつつ話は縦横に展開し、そのどれもがとんでもない知的刺激に満ちている。

まず興味を惹かれたのが、図書館と女性のかかわりについてのくだり。当初、女性が多く図書館で働いていたのは、低賃金ゆえだった。だが、20世紀初頭あたりになると、社会問題に関わっていたのは女性が多く、ソーシャル・ワーカーなども多くが女性だった。図書館の司書になる女性も、そうした人々とつながりがあったため、社会問題の解決に図書館を活用する、という方向性が芽生えていったのだという。

民主主義と図書館の関係も重要だ。ここでは「本を誰が選ぶのか」という図書館にとっての根源的な問題が扱われる。「利用者が読みたいと思う本を並べるべきだ」と主張する側と「利用者に読むべき本を示すのが図書館の役割だ」と主張する側の対立だ。前者を突き詰めていくと、ひところ問題になったベストセラーの大量購入のようなことになってくるのだが、後者は一方的な父権主義につながる上、(この対談では指摘されていないが)「利用者サービス」という観点からの問題も出てくる。

実は後から出てくる公民館の役割とも関係してくるのだが、公民館を舞台とするいわゆる「社会教育」の分野でも同じような対立構造があった。ここで自治体の内部事情を少しはさむと、実は図書館も公民館も、行政としては「社会教育」「生涯学習」といったカテゴリーにくくられ、部署としては原則として教育委員会が所管する。ちなみにスポーツ行政や文化財なども同じカテゴリーになるのだが、このあたりは最近は首長部局が事務を担うことが多いと思われる。いずれにせよ、日本における図書館は基本的に「教育の場」という位置づけなのである。

しかし、例えば政治学者の松下圭一は『社会教育の終焉』という本で、次のように指摘している。いわく、市民の教育レベルが高くなった成熟社会においては、「役所が住民を教え導く」という考え方はそもそも時代錯誤であって、市民の中には役所よりも高い専門性をもつ者がゴロゴロいるのだから、市民が相互に教え、学び合うことがこれからの時代には求められている、役所はそのための「場」を提供すればよい(いわゆる「パブリック・フォーラム」である)、と。

 

社会教育の終焉

社会教育の終焉

 

 

 

いわゆるリベラリズム的な立場の中には、こうした「理想的な市民」を想定しているものも少なくない。ややこしいのは、図書館にこうした市民の「育成装置」としての役割を期待してしまうと、図書館の選書は「知の専門家が行うべき」ということになり、かえって民主的な選書からは離れていきやすいということだ。一方の「住民が欲しい本を並べるべき」という見解は、サービス提供機関として図書館を捉える見方と近くなり、育成という観点からは離れてしまう。

このあたりはいろいろ議論もあるところだろうが、個人的には、図書館は民主主義ではなく「自由主義」に関わる施設だと思っている。それは「書いたものを読める状態に置いてもらえる」という点で「表現の自由」を担保する場であって(それこそマルクスでもレーニンでも置いてもらえる)、同時に利用者自身がさまざまな知に接することができる点で「知る自由」(一般的には「知る権利」だが、意味合いは普通のものよりだいぶ広い)を享受することができるのだ。

これも個人的見解にはなるが、民主主義と図書館が関係あるとしても間接的なものにすぎないだろうし、ましてや図書館自体が民主主義によって運営されなければならない、ということではないように思う。むしろ民主主義は時に自由主義を阻害することがあることを考えると、図書館における民主主義の適用は慎重に考えるべきであろう。図書館はあくまで少数意見も含めた知のバザールであってほしい。

ちなみに、冒頭のくだりからだいぶ遠ざかってしまったが、これはどちらかというとアーカイヴとしての図書館の重要性であって、アレクサンドリア図書館以来の古典的な図書館観に近い。ニューヨーク公共図書館がそれまでの図書館の常識を大きく変えたのは、収蔵されていた知を公衆に開く回路をつくったことにあるように思う。実際の映画の感想は、また後日。

 

 

 

003「普遍と多様」

「普遍性を持ちながらなお多様性を示す、それこそ生きものの特徴なのだから」(p.7)

 

 

「第一は、システムの構成メンバーが充分に多様であること。第二が、その多様なエレメントが、自己言及的なやり方で補充可能であること。第三が、それぞれの構成メンバーが単一あるいは複数の役割分担を持ち、それによって相互調節関係を持つこと」(p.120)

 

 

中村桂子『自己創出する生命』より。ちなみにこの本、サブタイトルが「普遍と個の物語」となっているほど、「普遍と個(多様性)」の対比が重要なポイントになっている。

 

自己創出する生命―普遍と個の物語 (ちくま学芸文庫)

自己創出する生命―普遍と個の物語 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

いきなり卑近な話になるが、自治体の現場で問題になることの多くも、この「普遍と個」のはざまで起こることが多い。一般に、制度というのは普遍、というと大げさだが「一般的な国民、市民」を対象に設計されることが多い。だが、どんなに慎重に設計しても、想定から外れた事例というのが必ず出てくるものだ。それは、私たちが相手にしているのが、多様性をもった個人である以上は当然のことなのである。

注意すべきは、こうした「枠組みから外れた個」がいわゆるレアケースとは限らないということだ。むしろ、どんな人も、国民なり市民なりとしての普遍性を持ちつつ、同時に多かれ少なかれ既存の枠組みから外れた部分をもっていると考えるべきである。「普遍であって、同時に多様」である存在として一人一人の住民に接するという視点が必要なのだ。

2つ目の引用は、実は本書の中で免疫学者の多田富雄の言葉を孫引きしているくだりなのだが、こちらは同じ普遍と多様でも「システム内の多様性」に着目している。自治体で言えば、課や係といった個々の組織があてはまるのではないか。

どんな部署でも、メンバーがあまりに同質化し過ぎると、見方や考え方が固定化してしまい、外部の視点や変化への対応に欠けることが多い。そこにはある程度の多様性が必要なのだ。もっとも、あまりに個性的な職員は「自己言及的なやり方で補充」することができず、異動になるとその人がやってきたことがぷっつりと途絶えてしまう。組織のメンバーの多様性は、あくまで組織の一員としての普遍性が土台になければならない。組織を維持し、成果を挙げるためにも、個々の職員が「普遍であって多様」でなければならないのである。

 

002「直営という見識」

「図書館業務自体を委託や指定管理に出す自治体が増えている中、生駒市は、図書館を直営し、正職員として図書館司書を定期的に採用しています」

小紫雅史『10年で激変する! 公務員の未来予想図』p.82より

 

10年で激変する! 「公務員の未来」予想図

10年で激変する! 「公務員の未来」予想図

 

 

AIで公務員の仕事がなくなる、民間委託が加速度的に進む、庁舎も公用車もなくなる……。公務員の危機感をガンガン煽る本ではあるが、いたずらな委託推進はではないのが、冒頭のフレーズでわかる。

これは「見識」である。著者は生駒市長なのだが、自治体のトップにこうした見識がないと、むやみに民間委託を繰り返した挙句、かえって自治体を弱体化させてしまう。コストカットもアウトソーシングも大事だが、何を外に出して何を役所で引き受けるかを決めるのは、繰り返しになるが「見識」なのである。

中でも、図書館に着目したところが素晴らしい。いや、本好きのひいき目ではなく、図書館とは使いようによっては地域を活性化させる「知のハブ」なのである。だが実際には、図書館の扱いをないがしろにしている自治体が実に多い。司書資格をもっている新人職員は、あなたの自治体ではどんな扱いを受けているだろうか。

001 「信じて疑う」

「誰よりも自分を信じ、疑え」

先日観た映画『新聞記者』で、主人公の新聞記者、吉岡の父が遺した言葉。オリジナルがあるのかどうか分からないが、この作品、この主人公にぴったりの言葉だと思う。

 

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吉岡の父も新聞記者だったが、誤報を出した責任を取らされ、自殺した。こんな言葉を遺したジャーナリストが死を選ばざるを得ない恐ろしさよ。でも、実はもっと恐ろしいことが後からわかるのだけど、それは映画を観た人だけのヒミツです。

それはともかく、この言葉はジャーナリストだけでなく、自治体職員にとっても、とても大事なことを言っている。自分を信じること、というだけなら、いろんな人が言っている。だがこの言葉は、同時に「疑え」とも言っているのだ。自分のやっていることを疑え。自分の「正しさ」を疑え。信じるな。盲信するな。

この映画で言えば吉岡は「信じて、疑う」ことができているジャーナリストだと思う。自殺した官僚の遺族に群がるマスコミに、吉岡は食って掛かる。自分もメディアの一員なのに。それができたのは、彼女が自分の仕事を「疑う」目を持っていたからだろう。

特にアブナイのは、自分が「正しい」と思って行動するときだ。そういう時こそ「自分を疑う」ことが必要になる。一方で、あまりに自分の仕事を疑いすぎると、精神的につらくなる。そういう時は「自分を信じる」ことが必要だ。信じつつ、疑う。二律背反ではあるが、この両方を自分の中にもつことができれば理想的なんだろう。