百円読書(税別)

百円で買った本を読み、ノートします。

Instagramに移行しました。

ブログだとちょっと機動性に難がありまして、

検討の結果、インスタグラムに移行しました。

 

hachiro86さん(@hachiroeto86) • Instagram写真と動画

 

どうなるかわかりませんが、trial&errorでやってみたいと思います。

よければ覗いてみてくださいませ。

 

#12 丸谷才一『夜中の乾杯』★★★

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こういう人と一緒にお酒を飲んだら楽しいだろうな、と思えるような、極上の「雑談」集。

古今東西にわたり膨大な知識と教養があって、それをひけらかすことなく極上の部分だけを切り取って、うまく調理して差し出してくれる。ちなみに、「夜中の乾杯」だけあって猥談もけっこう入っている。特に「褻語考」に出てくる「紫色雁高」(シシキガンコウ)にはびっくりだ(これ、何のことだと思いますか?)。

「養生訓」でアレの回数を指南した貝原益軒が実は品行悪かったという話(「男大学」)も面白い。夫の益軒が旅先で女遊びばかりするので妻が必ず同行していたが、それがかえって「文雅を愛する夫婦の風流な旅行のやうに言はれて、美談あつかひされた」そうだ(ただし、妻のほうに淫乱の気があって、浮気を心配した夫が連れて行ったという説もあるようだ。どっちもどっち、ということか)。さらに「性的時代」ではなんと日本史上の登場人物のホモセクシュアルに焦点をあてており、これはかなり酒が進んでいないと難しい種類の雑談だろうが、面白い。

もちろん猥談以外の話もたくさん収録されており、どれも興味を惹かれるものばかり。語り口、組み立て、話題の転換の仕方、オチのつけ方まで、いずれも名人芸に酔わされる。なお、本好きの人間としては、「蔵書印」で読書についてこんなふうに書いてあったのが印象的だった。丸谷才一でなければ書けない一流の諧謔であろうが、まったく同感。「読書離れ」を憂え、スマホばかりでみんな本を読まないと嘆く人が多いが、そんなに読書を「立派な事」としてまつりあげないほうがいい。

「本を読むのが好きだなんて人間は、まつたく例外的な存在で、そんなものに関心がない人が普通なのである。あるいは、読書といふのは一種の悪癖であつて、そんな悪癖は持合せてゐない方が人間として健全なのである」(p.154-155)

 

#11 三島由紀夫『近代能楽集』★★★★

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能楽についてはまるで明るくないのに、こんなの読もうとするのもどうかと思うが、読んだだけではどのへんが「能楽」なのかよくわからなかったというのが正直なところ。むしろ現代戯曲として秀逸な作品が多かった。

卒塔婆小町」は、オリジナルが小野小町の老いた姿という設定だが、本作ではそれがそのまま近代日本に移される。80年前に出会った深草少将は、名前もそのままでなんと参謀本部の軍人さんだ(ちなみに老婆小町が座っているのは、オリジナルが「卒塔婆」なのに対して公園のベンチ)。さらに小町は、少将の怨念から解放され仏の道に入るのではなく、ワキ役の詩人を殺して自らは百年後の恋を待つのである。

「綾の鼓」も秀作だ。舞台の上手と下手を分けての対比構造は能楽というより現代演劇。恋い焦がれる相手から鳴らない鼓を渡されて「この鼓が聞こえたら・・・」と告げられる老人は、からかわれたことを知って窓から身を投げる。亡霊となって甦り、鼓を鳴らして女性に迫るのだが、そのラストは「卒塔婆小町」同様の「数足らず」。こちらは原作がどうなっているのか知らないので比較のしようがないが、一見近代劇に見えて、亡霊の登場で一挙に能っぽくなるのがおもしろい。

時代も場面もがらりと変えて(「葵の上」が深夜の病院、「道成寺」はでかい鐘が古道具屋のタンスに代わり、「弱法師」はなんと家庭裁判所の調停室)、一見現代風を装いつつも、亡霊やら人の怨念やらと普遍的な要素が核にあるので、実はものすごく古典的で「強い」作品になっている。実際に能舞台で演じられたものもあるようなのだが、会話もまるっきり(書かれた当時の)現代言葉なのだが、能のあのテンポとゆらぎの中で再現できるものなのだろうか?

#10 鈴木秀夫『森林の思考・砂漠の思考』★★★

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冒頭で著者が指摘する、日本とヨーロッパの町のちがいがおもしろい。ヨーロッパの町は、高いところから見下ろすとたいへん美しい。一方、日本の町のほとんどは、上から見てもあまり美しくない。

ところが家の中に入ると、ヨーロッパの建物は「おそろしく不細工で、薄暗く、無趣味」なのが一般的なのだという。一方、日本の場合は一歩中に入ると「小奇麗に物が配列されて、情緒豊か」なのだそうだ。著者はこれを、ヨーロッパの「砂漠的思考」に対する日本の「森林的思考」が反映したものだという。

「砂漠的思考」は、文字通り砂漠での生活で培われた思考形態だ。砂漠では、一面の砂景色の中にあって、見えない範囲にあるオアシスを探し求める必要がある。その時に必要なのは、見えない部分も含めて俯瞰的に捉える「上からの」視点であり、不確実であってもどこかで決断しなければならないその決断力である。一神教はこうした砂漠的思考が高度な文明の中で高められ、天上の視点が唯一絶対の神となったものだという。

一方「森林的思考」は、あくまで地上の人間の視点で考える。砂漠と違って、森林には情報が多い。方向を間違うと渇き死にすることはないが、その分、目に見える膨大な情報を相互比較し、検討する必要が出てくる。そこから生まれるのが多神教的な視点である。

牽強付会と思われるだろうか。確かに、細かいことを言えばいろいろ気になることは多い。そもそも冒頭で日本は森林的思考の国と言っておきながら、後半では森林的思考から砂漠的思考への移行を論じているあたり、矛盾しているようにも思える。だが、こうした細かい事実の突き合わせに拘泥することが、著者に言わせれば「森林型思考」なのだ。それに比べ、思い切った判断で大理論を打ち立てようとした著者は、砂漠的思考の学者であるということになるのかもしれない。

個人的な趣味で言えば、細かいことは気にせず一刀両断するこうした思考は嫌いではない。こういう理論は正しいかどうかを問うよりも、世の中を見るための一つの見方、切り口を提供してくれていると考えるのが良いのである。

#9 伊坂幸太郎『ラッシュライフ』★★★

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偶然の一致というのは、小説や映画ではなかなか扱いにくい。現実では起こり得ることでも、フィクションだと「ご都合主義」と言われ、バカにされる。

伊坂幸太郎は、この「偶然の一致」を扱う名手だと思う。必然と偶然のすれすれのところを、この人は実にうまくすり抜ける。小説自体が実にスタイリッシュなので、偶然の一致自体がオシャレにさえ思えてくる。

『オーデュボンの祈り』に続く2作目とのことだが、すでに伊坂幸太郎のスタイルが確立しているのに驚かされる。どこか現実離れした世界観。軽やかなユーモアとアフォリズム。同じスタイリッシュな軽やかさでも、村上春樹が無意識にまで届く深みをたたえているのに対し、伊坂幸太郎はあくまで表面的で、意識も思考もそれほど深まらない。

でもそれが読みやすさの秘密なのだろう。どこまで連れていかれるか不安になるような深さではなく、現実離れしながらも、感覚はどこまでも現世的。前作のラストの拍子抜け感はなく、4つのストーリーが絡み合う複雑な構成ながら、それなりにしっかり着地が決まっていた。

 

#8 内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』★★★★

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本書に収録された2篇は、いずれも著者の講演録がベースになっている。そのためたいへん読みやすく、著者のメッセージがストレートに伝わってくる。冒頭では軽口を交えて聴衆を笑わせながら、徐々に語りの熱量が増していき、最後は聴き手(読み手)を巻き込むような熱弁となる。さぞ魅力的な講演だったことだろう。

「後世への最大遺物」では、人は後世に何を残していけるのか、というテーマを論ずる。金、事業、思想と畳みかけた挙句に出てくるのは、その人の生き方そのもの。人生そのものが「後世への最大遺物」であり、われわれはなにを後世に遺そうかと考えるよりも、自分自身がそのような人生をこそ送るべきなのだ。

トマス・カーライルは数十年をかけて書いた原稿を誤って燃やされてしまうが、失意を乗り越えて再び書き直した。ここで大事なのは、書かれた著作そのものではない。数十年かけて書いたものが燃えてなくなれば、誰でもがっくりきてしまい、書き直そうという気力は湧いてこないのがふつうだろう(私など、ブログの書きかけの記事を誤って消してしまった程度のことでも、やる気をなくし、再び書き直そうという気にはならない)。しかしカーライルは、あえてそこを踏みとどまり、我慢し、書き直した。その生きざまこそが、後世に何かを伝えるのである。

もうひとつの「デンマルク国の話」は、最近はやりの「先進福祉国家デンマークに学べ」のようなものではない。これもまた、戦争に負け、国土が荒廃したデンマークがいかに立ち直り、立派な再建を果たしたことを語るものである。

「国の興亡は戦争によりません、その民の平素の修養によります。善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けません」(p.86)

もちろんこれは戦争礼讃ではない。愚かしい特攻精神とも真逆のものだ。だが、敗戦後の日本がなぜ復活できたのかを、この一文は伝えてはいないだろうか。そしてまた、戦争に負けずとも、これらの修養を国民が備えなくなった時、国は衰亡する、ということを。

#7 ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』★★★★★

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子ども向けの本という言葉は、大人が読むには幼稚すぎたり、未熟すぎたりするといった意味で使われることが多い。でも「アリス」は、違った意味で「子ども向け」だ。この徹底した言葉遊びの応酬は、子どもこそがしんから楽しめるものだろう。大人になると、どうも余計な斟酌や考慮が入り過ぎてつまらない。

 

「何考えてはるかはわかっとるよ」とトゥィードルダム。「でも、じつはちがうんやな、ぜーんぜん!」

「逆に」とトゥィードルディーが続けました。「もしそうやったら、そうかもしれんし、かりにそうやとしてみたら、そうやったろうけど、じつはそうやないから、そうやあらへん。これが論理ちゅうもんや」

 

 

 

「『栄誉』ってどういうことか、わからないんですけど」とアリス。

ハンプティ・ダンプティは小ばかにしたように、ほほえみました。「そりゃあ、わからんだろうよ――わしが教えてやるまでな。『こいつは君がぎゃふんというようなすてきな議論だ!』という意味だ。」

「でも『栄誉』は『ぎゃふんというようなすてきな議論』という意味にはなりません」とアリスは反論しました。

「わしが言葉を使うときは」ハンプティ・ダンプティはかなり軽べつした調子で言いました。「言葉はわしが意味させようとしたものを意味する――それ以上でも以下でもない。」

「問題は」とアリス。「言葉にそんなにいろんなものを意味させられるかどうかということです。」

「問題は」とハンプティ・ダンプティ。「言葉とわしのどっちがどっちの言うことをきくかということ――それだけだ。」

 

本書の会話はほとんどすべてこの調子。言葉が言葉を裏返し、論理が論理をひっくり返す。これをパラドックスとか言語パズルとか、いろいろ言いようはあるだろうが、子どもたちの会話を聞いていると、たいていこんなふうに言い合っているものだ。大人から見れば単なる屁理屈の言い合いだろうが、実はそれは違う。子どもたちはこうして言葉をこねくり回し、論理を遊ぶうちに、そのあやふやさや矛盾や小難しさをハンドリングし、言葉との距離の置き方や取扱い方を学ぶようになっていくものなのだ。